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あなたの絶望が誰かの希望となる

待たせたな。目覚ましをかけない男、トミーです。

今日は会員さんからいただいた、気づきのご報告をシェアします。

個人が特定されない形で、一部だけのシェアとなります。あらかじめご了承ください。

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もちろん母は、これからこの子がちゃんと生きていけるように強くなってほしいと思っての嘘偽りない返(返答)だったと思います。

私は親になったことはありませんが、自分の大切な人に、ともすれば残酷だとされることを言わなければならない、そう思うと本当に大切でなければ、愛してなければ言えない、私は愛されていたと思いました。

そして、エゴの私で病気をし、諦めもしていた訳ですが、これまで気づかずにやってきた訳で、これも大きな思い込みだと感じているのですが、私は今まで自分では義足であること、障害者となったことを自分の中でクリアしている、と思い込んでいました。まるで鎮痛剤のように。

歩けるし、生活も出来ているし、そんな自分を時には偉いとさえ思っていました。

でも、こんなに癒しきれていない悲しみや絶望がまさかのところにあったという思いです。まさにこれが目の前のゴミに気づかずにまたいでいる感覚かな、ボタンかけ違えたか?と… まだまだです… が、向き合います。 

↑↑↑ ここまで ↑↑↑

この方は、今、改めてご自分の絶望と向き合おうとしています。

「乗り越えたつもり」だった。でも、そうではなかった。

今、ここにきて、根底にあるネガティブな感情が炙り出されてきた、と。

幸も不幸も相対的ではなく、絶対的なものだと僕は思っています。

幸せなんて上を見たらキリがないし、不幸だって下を見たらキリがない。

上を見て他人を羨んで落ち込んでも意味がないし、下を見て自分を慰めても、気休めにもならない。

それで自分が幸せになれるわけでもなければ、それ以上、自分が不幸にならないわけでもない。

そう思うと。

つくづく、幸も不幸も絶対的なものだなぁと、思います。

その上で。

絶望を乗り越えた人だけが誰かの希望になれるんじゃないかと思うわけです。

僕の絶望とこの方の絶望は違いますし、この方の絶望と、あなたの絶望も違うでしょう。

ただ、自分なりに、自分の絶望を本当の意味で乗り越えた人だけが誰かの希望になれるんじゃないか、と。

だとしたら。

それが50年後か100年後か、200年後か分かりませんが、

『今の自分の絶望が、いつか誰かの希望となる。』

そう思いながら、僕は、今日もりんごの樹を植えています。

今のあなたの絶望が、いつか誰かの希望となるでしょう。

あなたがあなたを見放さない限り、人生は終わらないし、誰もあなたから希望を奪い取ることなんてできません。

今は辛いかもしれませんが、あなたもいつか誰かの希望となってください。

ちなみに。

これまでの経験で言うと、絶望が大きい人ほど、使命も大きいです。

なぜか?

その使命を果たすために生まれ、その使命に気づくために、その体験をしてきたからです。

そう思うと。

この方からのご報告を拝見するたびに、「この方もさぞかし大きな使命があって生まれてきたんだろうな」とつくづく、感じています。

そして、その度ごとに、この方を生んで育てたお母様の存在の大きさに胸を打たれます。

目に入れても痛くないほど愛おしい我が子の絶望が、辛くないはずがありません。

僕のような父親ですら自分の子供が膝を擦りむいて泣いているだけで、「代わってあげたい」と思うのが親心ですから。

10ヶ月も身籠り、お腹を痛め、命がけで産んだ母親なら尚更でしょう。

この方も、もちろん、これを読んでくれているあなたも。

それぞれ自分の使命に気づき、そして、それを全うしましょう。

君に幸あれ。

トミー

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